孤独であることと孤立することについて

 統合失調症の急性期に、本人の自意識が爆発的に肥大していく過程で、突然にボランティア活動や芸術活動の分野で、すばらしい才能を発揮することがあります。1日24時間そればっかりに集中して,一定の成果を残します。でもやがて才能は枯渇していって、しかし極度の緊張による自意識の肥大は止まらなくて、持って行き先を失い、周りに向かってどんどん肥大していき、周りとの境界線がなくなってしまいます。宮崎駿のもののけ姫のクライマックスに出てくる、「でいだらぼっち」という神とも妖怪ともつかない生き物が、周りのものをどんどん取り込んでいって、巨大化していく様にも似ています。でいだらぼっちは透明な体をしていたけれど、自意識も透明で、目に見えないところがとても良く似ています。もともとの肥大化の原動力はストレスによる孤独です。孤独に耐えられなくなった自意識は、寂しさから境界線を破って、他人との距離をなくして広がっていく。それで他人の声が直接脳に響いてきたり、他人の怒りや嫌悪の感情が直接悪口になって聞こえてきたりするようになります。統合失調症は、そんな他人との距離を失って、孤独の結果であるプライドが、壊れてしまった自意識の病だと思います。「自意識」というのはいわゆる「器が大きい小さい」の器と同じです。そしてもちろん急に発病するのではなくて、ストレスに対してプライドで耐え続けているのですけれど、ふっと気が抜けた瞬間に発病していくさまは、気が張って寒さに耐えているときには風邪を引かないけれど、暖かいところに行って、ふっと気が抜けたときに風邪を引くさまにも似ています。PTSDのフラッシュバックも、ふっと気が緩んだときに起こると聞きます。
 発達障害の場合も統合失調症に似た症状が出ることがあります。発達障害の場合には、こだわりによる過集中や周りとの摩擦によるストレスがとても長期にわたると、脳が疲れ切ってしまって、元々薄い人との境界性を失って、妄想状態になって、発病に至ると言うことだと思います。この状態が統合失調症と発達障害の境界線を曖昧にしているのだと思います。ぼくの場合は虐待の育ちが原因の、子ども時代のコミュニケーションの基礎作りに失敗した結果の愛着障害が、発達障害にとてもよく似た状態になったのだと思います。
 朝日新聞の天声人語で「孤立には慣れることが出来ないが、孤独には慣れることができる」と言うのがありました。なぜ孤立に慣れることが出来ないかと言うと、周りに人がいて仲間になれないで排除されてる感じが孤立だからです。排除感が続くと緊張がどんどん高くなって、少しも落ち着けません。これが先ほどの、発病の契機になっているのです。先ほどぼくは発病の原因として「孤独」と言う言葉を使いましたが、じつはこの孤立感こそ、発病の原因なのです。ぼくが発病したのは、19の時の浪人時代に味わっていた孤立感なのです。当時コミュニケーションも下手で,うまく周りの人たちと交流できず、とっても寂しかったです。そしてぼく一人が穴の中に落ちていて、上を周りの人たちが行き来すると言う、離人感が現れました。発病して妄想幻聴が出てくるのは、ある程度温かな雰囲気で過ごせた、大学の入学後でした。
 さていまぼくは「孤立」は感じませんが、「孤独」というのは今でも感じますし、休みの日は引きこもりがちなのですが、孤独を感じています。引きこもりの人たちの辛さの原因は、たぶん人前に出た時の「孤立感」だと思います。「孤立感」は緊張を高めます。それに比べて、「孤独感」は静かに落ち着いていられます。周りの人たちを意識しないで済むからでしょう。だから引きこもりの人たちは、孤独感は感じても、発病にまで至ることは少ないのだと思います。だから引きこもっている人を無理矢理に外に連れ出したりすれば、孤立して緊張が上がってしまい、発病前の状態になるのだと思います。引きこもることによって、発病から自分を守っているのだと思います。海外旅行などが引きこもりの人たちによいと言われるのは,外国では言葉はわからなくても、孤独は感じても孤立感を感じないで済むからだと思います。
 さて孤立感には相対感が欠けています。どういうことかと言うと、寂しいときに、周りを冷静に見渡せば、「何だ、みんな同じ寂しい人間じゃないか。ちょぼちょぼじゃないか。」と分かり、自分の辛さを相対化できるものです。孤立したときには自分の殻から一歩も出られないで、「人と自分は全く違う。人は何を考えているのか全く分からない」と言う不安感や恐怖があります。孤立は寂しいと同時に,不安でもあるのです。これが余計にストレスを溜める原因になっています。ところが孤独の方は落ち着いていられますから、周りを冷静に見渡して「自分と他人とはそうは違わない」という相対感や安心感があります。孤独なら人との境界線を自由に開いたり閉じたりして、あるときには人と交わり、あるときには自分の殻に孤独に引きこもる。自由に交わることと孤独の間を行ったり来たりできます。そして「自分と他人は同じ人間だ、そうは違わない」という安心感があります。孤独はストレスにならずに,孤独を愛することだってできます。孤独を楽しむこともできます。その境地になれば、ある意味人生を悟って生きることができます。人生とは死に向かって、刻一刻と進んでいくカウントダウンです。だから今を生きるしかない。心配事は明日に伸ばせばいい。心配は明日に先送りして、今を楽しむ。これが病気が寛解した今のぼくの心境です。
 さて「孤独」は「自由」の裏面です。自由であり、孤独であることが様々な才能の前提です。宇宙にひとりぼっちと言う孤独こそが表現活動の源であり、別に孤独は恐れることもないと思います。でも「孤立」の方は、長く続けていると病むことになります。人は誰しもがたいしてひとり強くはないですから。統合失調症から寛解したら、寂しさを感じます。誰もが必ずひとりぼっちで死を迎える、そういうたぐいの孤独です。ぼくはいまも強い孤独を引きずって毎日を過ごしている訳でもないのです。軽く孤独に、軽く悲しい毎日が、平坦に続いています。ぼくに取って周囲からの孤立は発病に続く一本道だったし、いまの孤独とは寛解の証でもあります。
 さて統合失調症が寛解して1日8時間働けるようになって一番強く感じるのが、世の中に厳しさです。本当に腕一本で生活費を稼ぐことが、どんなにたよりのないことであるのか。人は交通事故や病気ですぐに働けない体になってしまう。仕事の役に立たなくなったら,職場では用済みです。生活保護制度がなかったら、病者はいきては行けない。この場を借りて、今政府が押し進めている、生活保護支給額の1割削減に強く抗議しておきます。生活保護は働けない人の命綱です。そして生活保護費は貯蓄できないので全額消費に回ります。この不況に保護費を削減して、消費を冷え込ませてどうするんだ、と思います。おまけに生活保護受給者に対する世間の冷たいスティグマはあい変わらずなのに、支給額だけは減らされる。自民党の国会議員さんまでが「貧乏は自己責任だから、生活保護を受けることを恥だと思うべき。家族に頼れ」との発言をマスコミを通じで繰り返しています。この「恥だ。隠さないといけない」と言う内面化された意識がスティグマの根本です。生活保護受給者は人から責められ自分で自分を責めて、まさに踏んだり蹴ったりなのです。生活保護世帯の自殺率は一般の2倍でもあります。
 さていまは障害者の就労支援がお盛んで、ぼくもムゲンと言う就労支援施設の責任者で、毎日あくせく働いているのです。ムゲンのキャッチフレーズは「就労施設なのに居場所!」です。就労自体には全く重きを置いていない事業所です。就労を目指すよりも、みんないい加減な人間になることを目指した方がいいです。まじめすぎて病気になったのですから。ムゲンはそんなみんなが安心して居続けられる居場所であり続けたいと思って続けています。生活保護をもらいながらムゲンに来ている人もたくさんいますが、生活保護をもらえる人はとっとともらって、働く代わりに余りお金のかからない趣味とかに打ち込んでいきていくことがどれほどいいかと思います。人生には最終的には自己満足しかありません。死ぬ前に「満足だった!」と一言、言って死にたいものです。だから下手に一般障害者は就労すべきではないというのがぼくの持論です。「障害者も働ける!」などというつまらない幻想を持つことは,一生の不覚だと思います。就労して成長したいと思っている人もいます。しかし成長は若い人のことで、大人は苦労すると体調が悪化することを通じて、老け込むだけです。高校時代猛勉強して燃え尽き、浪人時代アルバイトと深い孤立の毎日で、10代ですっかり老け込んで、夢も希望もない老人のような心境になったしまったことを思い出します。
 さて社会復帰と言うものは求めて努力している間は得られないものです。ストレスや病気の再発で挫折して社会復帰をすっかり諦めたときに、その人は社会の片隅でひっそりと社会復帰をしているのだと思います。人生と言うものも同じで、人生に何かを求めたり期待したりして人生というものに求める気持ちがある間は、いつまでたっても希望はかなえられません。例えば、愛する人の死や愛する人との別れ、生死をさまようような事故や病気を経験して、自分の死に直面して「自分の人生を投げてしまうしかない」と言う心境を経験すると、意外なことにそれ以降の人生はけっこう実り豊かなものになります。つまり人生を諦めて初めて,以前の希望はかなえられ,実り豊かなものになるのだと思います。

 

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