トレースの仕事の間違い、電話応対の不手際など。色々なミスを犯すようになってしまった。昼の休み時間を、かってに長く取ったりした。そのような状態が3日間くらい続いた。4日めに、とうとう精神的な破たんを来たして、即入院となった。
 またまた最初は、格子のある保護室だった。退屈な日々だった。2回目、という事もあってか、最初の時みたいにショックはなかった。 隣の患者とも仲良くなり、いろんな話をした。入浴の時だけ外に出られたので、その時だけが楽しみになった。
 しばらくは、それでも良かったのだが、だんだんと不満が高まってきた。 ある時、その鉄格子がゆっくりとであるが、たわんでいるような様子に見えた。 そのたわみにうまく乗れば、この鉄格子を曲げる事ができるのでは?と思った。 そこで、うまくできるか分からなかったが、やってみる事にした。 その頃のわたしはまだ今のようにまでは、ひどく太ってはいなかったので、ググっと曲げて、脱出する事ができた。体力を使い果たし、しばらくはボ〜っとしていた。外の廊下に出たのだが、そこもまたカギがかかっていて、何にもならなかった。しばらくして、看護士に発見されて、もっと太い格子のある部屋に入れられてしまった。 この件があったために、僕の退院は、長くなったと思われる。 その後、また閉鎖病棟に入れられて、2ヶ月くらいそこに入っていた。閉鎖にいるあいだに、2回ほど外泊があり、家に帰った。 その後、順繰で、開放病棟に行った。 以前ここで会ったMは、もういなかった。 開放病棟は、楽だった。病院内なら、散歩もできたからだ。Aさんと言う、話相手もできた。結局、2回目の入院は5ヶ月くらいだったと思う。
 家に帰ってきたが、もう仕事をしてまた悪くなってはいけない、と思い職は探さなかった。 8ミリを楽しんだり、友だちとドライブしてりして、気分をまぎらわしていた。 こずかいは、イラストなどを描いて、かせいでいた。
 近所の奥さんが、原付きの免許を一日で取ったので、僕も教習所へ行って、試験を受けた。 うまく一回でとれたので、ラッキー、てな気分だった。 ヤマハのメイトを買ってもらい、それでドライブする楽しみができた。友だちも原付きを持っていたので、二人でそこらかしこ、走ったりした。
 でもまたまたというか、三回目の入院をした。 今度は原因がよくわからなかった。 突発的に発作状態となり、二階の自分の部屋から、物を投げてわーわーとわめいたようだ。
 もうこのへんから、入院の事について詳しく書くのが、嫌になってきた。 ともかく、最初、2回目、と同じ順序でまた4ヶ月くらいで退院した。 3度目の退院をした後は、かなり持ちこたえる事ができた。 つごう5年間くらいである。この5年間のあいだは、くすりにも頼らず、ある意味では健常者と全く同じ生活をしていた、しあわせな期間だったと思う。それをガラガラと壊して、またもや病者にしてしまったのが、僕にとって地獄の思いをさせた、アニメスタジオでの生活だった。
 初めは姉が、新聞記事に載っていた募集記事を、ぼくに見せた事からだった。 福音寺にそれはあり、たしか電車に乗って行ったと思う。中は雑然としていた。ともかく、好きなアニメの仕事だし、自分にもできると思ってIM企画と言うそこへ、通う事にした。アニメの仕事の内容は、もう高校生の頃には、ほとんど知っていた。だから、但当の彩色のパートが撮影の直前の仕事だという事はすぐに分かった。IM企画での仕事は、いろいろあったが、最後は崩壊した。社長のIが、やくざ崩れだった事も関係していたかも知れない。その後で、IM企画のメンバーが集まって、スタジオPを作ったのだ。アニメの仕事が、労多くて、報いなしという事は、とっくに知っていたのに、仕事としては一番長く続けてしまったのは、やはり好きだったからだろう。スタジオPでも、仕事は前のと同じだった。動画をトレスして、裏からセルに色をぬるのである。スタッフの顔ぶれは、目まぐるしく変わった。ぼくがいた四年の間、最後までいたのは、四人だったと思う。このスタジオは、ちょっと変わっていて、去るもの追わず、来るもの拒まずだった。しかし、技能は厳しくチェックされていた。ともかく、締めきり間近の仕事は、厳しい、の一言だった。二日間寝ないで航空便に乗せて送る事もあった。最後はちょっとした事がきっかけで、スタッフと問題をおこしてしまい、なんだかこの仕事を続ける事がばからしくなった。そのすぐあとで、胆のうに胆石ができている事がわかり、入院する事となった。一ヶ月ほど奧島病院に入院したが、その手術で右腕にしびれがおきて、精神的にショックを受けた。それが大きな原因となり、また発病してしまう事となった。

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