またまた、と言うか自分の病歴を書こう。

松精に入院してから、退院までは、最初は4月くらいだった。その間の入院期間は、決して何ごともなかった訳では無い。僕がびっくりしたのは、こんな人も入ってきてるのか、と言う驚きだった。やくざ崩れあり、一般の会社人あり、もう絶対にこの人は退院できまいな、と。隔離病棟にいる時は分からない事だが、閉鎖病棟の中は、病者自身による差別が露骨な事だった。「あいつは阿呆だから近付くな」とか、本当に色々だった。どう言う訳か、僕はいつも看護者にいつも見張られてるような気がした。開放病棟では、それがあまり感じる事は無かったが.....。
 一番ショックだったのは、かつての友だちのMに、この病院の同じ病棟で会った事だった。 以前僕が、高校生だった時、中学時代の親友たちに「おい、羽藤、Mが精神病院にいるから、お見舞いに行こう。」と言われた時、僕は尻込みした。仲の良かったあいつが、何で精神病などになったのか、見当もつかなかった。 その時、恐れをなして、僕は一緒には行かなかった。しかし、こうして自分も精神病者の一人として、彼に会おうとは....。因果は巡る?か。ここで再びあったのも、何かの縁、仲良くやって行こうと、彼に話し掛けてみたが、素っ気無く、拒絶された。 しかし、毎日の生活の中でいや応なく、彼とは会わなくてはならなかった。 この頃から、今に続く皮膚病にかかってしまう。乾鱗(かんせん)である。 今は漢方薬を飲んで、治そうとしている。 痒くって、いやなやまいだ。色々あったのだが、この開放病棟に移って、2回ほど外泊をした後、松精を退院した。
 家に帰った事を、一番喜んだのは、母だった。 家の雰囲気にも慣れて、落ち着きを取り戻すまではかなり時間がかかった。もう、今は病院ではない、と。趣味の絵を描く事もまた始めた。 マンガを読んだり、テレビを見たり好きなUFO関係の本をまた集めたりした。 今は音信が途絶えてしまったが、高知の友人の所へも、遊びに行ったりした。
 彼はAと言う。なぜここで彼の事を書くかというと、僕が精神病院に入院してい時、お見舞いに来てくれた事が嬉しく、今も忘れられないからだ。友人のBも来てはくれたがやはり彼が来てくれた事の方に感激した。喫茶店でコーヒーを飲みながら、雑談した。元気になったら、また高知にこいよ、と励ましてくれた。名残惜しかったが、時間が来たので、彼と別れた。実際、退院した後、僕は高知へ行った。話す事が、山ほどあったので、五日間も彼の家に滞在させてもらった。 退院してから、3ヶ月間ほどは通院していたが、もう睡眠薬なしで眠れるようになったので家族にも、もういい、と言ってやめてしまった。実際、以前と同じ暮らしはもうしていた。それから一年くらいは、精神的にも安定し、母に頼まれたイラストなども描いていた。もう大丈夫かなと思って、ある就職情報誌を見て、電気設備の設計事務所を訪ねた。まだ21才だったし、高校の専門は機械だったが、電気のほうも一般で習ったので、もう一度勉強すれば何とかなると思っていた。幸い、機械科で製図器の使い方はマスターしていたので、採用となった。そこで僕は4ヶ月の間働けた。その間、色々な事をやった。工事現場に2回働きに行ったりしたし、大阪へ出張に行ったりした。その時、以前働いていた、フルーツパーラーの前を通ったが、かつての仲間が今どうしているか、怖かったのでその中を覗いて見る勇気は無かった。そして帰りの船では、一等船室で初めて眠った。ビジネスホテルにも泊まったしそこのでの待遇は今考えると、知的な作業だったし、自分には一番向いていたように思う。 
 ある時、母が事務所をたずねて来た。後で知ったのだが、母はその近所の知り合いを訪ねた途中でここに寄ったのだった。母のせいにするつもりは、今はもう全然ないのだが、その当時は不快であった。別に親にたのんで探してもらった仕事でもなかったからだ。 半年間を、試用期間としていたので、そのあいだに電気の勉強もしていた。もうここでずっと働きたい、と思ったので、母にその事を言った。すると「あんたには絵の世界があるじゃない、そっちはどうするの?やめないで」と言われた。 これは意外だった。どう考えても、今の自分にイラストなどの方面で、食っていける自信など無かったからだ。 そのあたりから、また自分のこころに変調がおきてきた。

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