(1) 少年時代

父はほんの時たま飲んで帰ってきました。「Yシャツに口紅がついている」と、母は父をなじる。父は「電車が混んでいたから、ついたんだ」と言っている。僕は「電車でついたんだ、と言っているじゃない。もういい加減で許してあげてよ」母に懇願する。母は絶対に許さない。あげくのはてに母は2日か3日寝込んでしまう。こんな母が僕はとても怖かった。

僕は良い子だったが、母親からうそをつくことを習いました。小6の家庭科の宿題のマガジンラックのバラのししゅうを親戚のおばちゃんに全部ぬってもらって「僕がやりました」と提出したり、詩の宿題には母が書いた「煌々たる朝日が昇る」という、誰が見ても小学生が書いたものではないものを提出させられました。父の書いた詩も提出したこともありますが、父の場合は母と違って「おまえが書けなくて困っているなら書いてやろう」というスタンスでした。

それに対して母は火や包丁は子供に使わせない、手伝いも下手だからさせない、大人だけの秘密がいっぱいあって、それは子供には絶対教えない、という主義でした。その結果自立を考える頃になって僕が感じたことは、「僕は何も出来ないし、何も知らない、どうしたらいいんだ。」という思いでした。

僕は少年時代ずっとマザコンであり続けましたが、それは母のペットとしてその役割に順応したということでした。母は捨て猫をよくかわいがったが、それと同じ様なかわいがりかたでした。小学生で僕がかわいかった頃はそれでよかったのですが、中学生になると、うのめたかのめで僕の悪いところを指摘する母になりました。これは小学生の時の優等生も中学生になって息切れし一気に劣等生になったことも原因と思われます。母は猫は相変わらずかわいがっていましたが、僕にとっては小学校の黄金時代が終わり幼児の時のような良い母と悪い母が復活することになりました。これはただ母が機嫌がいい時と悪いときがあるというようなものではなかったのでした。

母は父には愛情を注がなかったが、男の子の僕と弟には愛情を注いだ。妹は女だったので「母親から愛情を受けたことがない。」妹は立派に働いているが、「私が子供をもったら母と同じに子供に接してしまいそうで怖い」と言って、独身をとおしています。

妹は小さい時から大人びていて僕なんかはコンプレックスに思っていたのですが、その原因は母が息子は溺愛し、娘には冷たくあたっていた、というちがいにより、息子は育たず、娘は早くから冷静になっていたためと思います。それが息子は長ずるにおよんで分裂病に、娘は長ずるにおよんでアダルトチルドレンへと育ったというちがいを生んだものと思われます。病気をひとつの逃避と考えれば、逃避できず正気で苦しみ続けた妹はさぞ苦しかったろうと思わずにはいられません。

小さい頃の母は僕をねこっかわいがりもしたが、そればかりではありませんでした。自分の気に入らないことを子供がしでかすと、外に出す、柱にしばりつける、おしいれに入れる、お灸をすえるなど、泣こうが懇願しようが、きわめてきびしかったです。

僕は中学高校と男子校だったけれど、一回だけ女性から手紙がきたことがあります。それを母は読んだ上で目の前でやぶっってしまったこともありました。

僕は小学校高学年のころ読んだマンガのなかのくの一にやたら引き付けられ、何度も何度読み直しました。お気に入りは、桜ふぶきで男忍者をやっつけて「ホホホホ」と笑うシーンでした。しかし学校では「女性なんかに興味はない」という顔をしていなければなりませんでした。なんせ僕は優等生だったから。勉強もよくできたし、遊びのなかでもみんなの中心でした。女の子からもよくもてました。それが中学になったら、みんな大人びて見え、誰もさっそってくれなくなり、とじこもるようになったのです。そのなかで性のめざめは本格的になっていきました。男子校なので女の子の目がなくなった分厳しい母親との葛藤の連続でした。

中学生の時、初めて精通がありパンツを汚してしまった。本能的に「怒られるから隠さなきゃ。」と思い洗濯かごのいちばん下にいれておいたら、母に見つかりました。僕は呼ばれてパンツを鼻先につきつけられ、母は勝ち誇った様にあざけったのです。本当につらかったです。

僕はヌード写真を隠れて集めるようになった。ヌード写真を見る僕は母親から存在を許されてなかった。知らん顔をしている僕は、性欲の嵐でした。ヌード写真を隠しては見つかり、そして母は僕をあざけったり、沈黙で威圧したりしました。このイタチごっこは、高校になるまで続きました。僕は勉強も全くせず落第スレスレでした。このときの性の抑圧が長じて僕をマゾにさせたのではないかと思います。

こういった抑圧の反動は僕自身が身近な人をいじめることによって、顕われました。いやがる妹にダンゴ虫を食べさせようとしたり、兄弟げんかをすると相手が泣き出すまでやめませんでした。うちに当時お手伝いさんが来ていましたが、「クサイ」とか「あっちへ行け」とか言っては泣かせていました。                                                            
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