(2)青年時代

高校時代、宿題の歴史のレポートをちゃんと書いてきたのに、テストと一緒に出しそびれてしまいました。家に帰って父に言うと高校に電話してくれて、出しに行きました。次の日の歴史の時間に「テストと一緒にレポート出さなかった人手をあげて」と先生はみんなの前で言ったのですが、僕は恥ずかしくて手を挙げられませんでした。このような引っ込み思案で、みんなの中で目立ちたくないという気持ちが強かくありました。ある朝遅くおきて、遅刻して目立つのがいやで父親に車で送ってもらったこともあります。他人の一言でペチャンコになりそうな線の細い高校生でした。

この頃友人たちは、昼休みにお好み焼屋で昼飯を食べ、サッカーに興じていました。僕はお好み焼が食べたくて、友人達がうらやましくて、何回も母に「弁当は作らなくてもいい」と言ったのですが、母は弁当を作り続け、僕はとうとう卒業までお好み焼を食べられませんでした。サッカーは、僕は運動おんちで、性格的に『読み』が出来ず、『臨機応変な判断』が出来ず、仲間に入った事はありませんでした。たまに誘われて入っても、パスをうまくつなぐ事が出来なかった僕は、一人で校庭の隅の鉄棒で遊んでいました。これは人との付き合い方、遊び方を学ぶチャンスを失う事となり、僕はますます自閉的になっていったのでした。僕はその頃、ロックが好きでレコードを集めていました。ステレオのある応接間にこもって、レコードに合わせて奇声を上げたり、ピアノをめちゃめちゃに弾いたりしていました。テストが終わった休みに、ロックのレコードを買にゆく事が、何より楽しみでした。その頃クラスにロックの好きな友人がいました。彼とレコードの貸し借りをしたりするのが、僕の友達づきあいでした。後に、クラスにロック好きが増えて、僕は彼を独占出来ない事が悔しかったし、嫉妬を感じました。それは彼にも分かり、彼は僕を避けるようになりました。僕には親しい友人が一人もいなくなりました。中高一貫教育でしたが、「この学校は自分に合わない」と言って、中学を卒業すると、公立へ代わって行った人もいました。僕も合わなかったのですが、あえて転校する勇気がなかったので、そういう人のことは「すごいなあ」と思いました。その時、僕も勇気を出しておけば、あるいは高校以降の精神的危機は回避できたのではないかと思うと、自分に忠実に生きる事の大切さが、今になって身にしみます。そしてこの悶々と悩む性格が、高校を卒業しから十二指腸かいようをつくってしまったのでした。

僕が最初に自殺を考えたのは高二の時でした。それまでは低迷していた学校の成績でしたが、高一頃から、とりつかれたように勉強を始めました。それまでの中学時代の嵐のような性の目覚めが一段落して成績はと言えば250人中230番くらい、このコンプレックスがバネになりました。寝ても覚めても学校の行帰りも参考書とにらめっこです。この高校の生徒が参考書を見ながら歩いていて車にはねられたという笑い話が、その頃の僕にとってはあり得る話でした。勉強の甲斐あって50番くらいまで上がりましたが、それ以上はどうしても上がらず、東大を受ける連中に勝つことができませんでした。その挫折感から以降僕はニヒルになり、いっさい勉強をしなくなりました。その高校は受験校であり僕という人間をはかるものさしは成績以外何もありませんでした。その頃死にたいと思ったのです。父親の病院の屋上でずっと下を見ていましたが、やはり死は怖く、何とか回避する方向を探って「まあ、つまんない人生だとは思うけど、生きて経験してみるか」と思い、地面に降りました。今まで、うつに襲われるたび、何回となく自殺ねんりょが頭をもたげ、実行に移しかけた事もありますが、現在まだ生きてます。

さて僕は浪人時代、十二腸かいようで治療を受けたのがきっかけで、その病院の親戚の服部君という私立医大生と、知り合い(彼は学生運動の闘士でした)、しょっちゅう、彼の所へおしかけ、興味を持って話を聞きました。僕はひたすら聞き役で彼がしゃべるという事を繰り返していました。ある日、彼も僕のことがうっとうしくなったのか、「おまえはホモか」と言いました。僕は激しく傷つきました。下宿まで激しくなきじゃくりながら帰り、彼の所には二度と行きませんでした。高校時代からずっと、僕は自分を著しく低級な人間だと思っていました。人と対等に話ができるなどとは、思っていなかったのです。それが医大に入り、クラブに入って一日中ドラムを叩くようになってから、十全感に満たされ、すごい自信家になりました。十全感は分裂病を発病するまで続きました。                                        
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