(3)発病直前

僕は私立医大を受けてすべり、東京で浪人することになりました。

東京ではまだ学生運動が盛んでした。デモの日があると現場で適当なセクトのヘルメットを借り参加しました。しかしデモが終わってからの集会とか集約になると、ヘルメットをかえして、とっとと逃げ帰ってきました。どこかの、セクトの一員になると、現実をひきうけないといけないし、動員など行かなくてはいけません。ひとり帰るのは、淋しかったけれど、人の中に入ってもまれるというのは、もっといやでした。変にプライドは高かったのです。あるいは、傷つくのを恐れていたのかもしれません。精神分析的にいうと、1才の頃、はやくも世界をあきらめることがあり、基本的に人に期待しない、人とつきあってキズつくより、一人がいいという性格を身につけたのかもしれません。

僕が学生運動に首をつっこんだのは世界への恨み(=母への恨み)を晴らしたかったのだと思います。そして体制にぶつかるということは強さに欠ける僕の父を乗り越えるための代償行為だったともおもいます。しかし僕も年をとって子供をもち、翻ってみると僕の父にそっくりの父親になっていることに気付きます。

ある日田舎から父が下宿に泊りにきました。父は父子の話をしようと「女性のことはどうだ?」と聞きましが僕は、バイト先の女子高生が下宿に泊りに来たがピクリとも立たなかったことは、恥ずかしくて言えずごまかしたので、これ以降、父と女性のことについて語る機会を永遠に失ってしまいました。でもこの時の父の青年のようなういういしさは今でも忘れられません。

当時僕は昼となく夜となく下北沢を歩き回って本屋や古本屋にいっったりしていましたが、そのとき感じていたのが、僕と僕以外の人との間には膜があり、僕と僕以外の人とは全然別の世界に生きているということです。特にカップルの人はうらやましかったけれど、僕との接点はありませんでした。それが人としゃべったりすると、といっても、僕の人とのしゃべり方は、ただひたすら聞くだけです。何をしゃべったらいいのか全然見当がつかないのです。小倉君という友人が働いているスナックに行っても、小倉君は誰とでも口角泡をとばしてしゃべっていても僕は人のしゃべっているのを聞くだけで、僕は一言も口をきかず、3時頃の閉店までじっと座っているだけでした。僕は一人だけ落し穴のような所にすっぽり入っていて、僕の頭上の地上をいろいろな人が行き来しているというのを感じていました。

小倉君は僕と同じ下北沢の下宿にいました。高校時代、学生運動をやっていて、今は、豆腐屋とか「む!」というスナックで、バイトしたりしていました。(「む!」には林なんとかという音楽家の娘さんのみかんちゃんというのがよく来ていたが、今はどうしているのだろう。)彼が何故豆腐屋でバイトしていたか、今にして思えば松下竜一先生の「豆腐屋の四季」の影響だと理解できるが、当時はわからなかった。その下宿にS君というのがいて、僕も彼の部屋でギターなどひいて話をしたことがあったが、僕もつっぱっていたので、たぶん彼の自意識を直撃するようなひどいことを言った覚えがあり、その後しばらくして小倉君からS君は精神病になって田舎へ帰ったことを知らされました。同じ下宿に、吉田一穂(いっすい)という詩人に私淑している東大生がいましたが、彼の部屋の前を通ったときひとりで苦しんでいる姿をチラッと見て怖かったのを覚えています。

僕にとって発病前の重要な時代は、浪人時代(18才)と医大時代(19才)に分けられます。浪人時代はひたすらさみしく、友達がいなかった時代、そして医大に入って1年間は友達も出来、発病前夜の音楽の才能の花開く時期です。

当時、下北沢を歩いていて、ストリップ劇場に入りました。舞台に女性が出てきて僕はいちばん後ろで「俺の女になれ」という幻聴を聞きながら、舞台の女性の目だけを見つめていました。しばらく踊ってましたが、女性は「腹が立つ」といって途中でひっこんでしまいました。僕の自意識が怒らせてしまったのでした。

発病してから、僕はほうぼうを歩きまわったあげく、地下鉄に乗りました。がらがらでしたが、僕は何か座ることでプライドを失うような気がして椅子に座らず立っていました。座っていた男が「何故座らないんだ」という感じでなめるように見つめていました。無性に腹が立ってきて次の駅で降りましたが、僕は身体中が憎悪でいっぱいになっていて、「あの男は死んだ」という思いが込み上がってきました。あの男も怖かっただろうとそのとき思いました。

ある時、自主製作映画を見た帰りに、ふっと後ろを向き、後ろを歩いていた女性に話しかけ知り合いました。あとでその人が言うのに、僕のその時の表情は寂しそうで今にも泣き出すんじゃないかと思ったと言っていました。たしかに毎日が寂しくてたまらなかったです。その女性とも最後まで男女のつきあいはありませんでした。僕にはありのままの僕を愛してくれる女なぞいない、という確信がありましたから。

発病前、下北沢にいた頃、親からの送金を断わっていたので、質屋によく通いました。ラジカセや時計を入れ、千〜数千円を借りることが出来ました。取り返すため、肉体労働のアルバイトをしました。高田馬場駅前で6時頃立っていると手配師が来て、一日の収入を言って、車で現場まで運んでくれました。地下鉄で行かされたこともありました。現場のあとかたずけなど終えると、帰りに現場監督から金をもらいました。

ある時、現場へ行っても「今日は仕事がない」と言われることがありましたが、日雇の一人が「帰りの電車賃くらい渡せ」ともめまわっってくれたこともありました。たぶん、学生運動とかしてる人だったのでしょう。全員電車賃をもらいました。そして質に入れた物を取り返しました。

 高田馬場までの電車賃すらないこともありました。そんな時、下北沢に住んでいた医大の音楽サークルの先輩の所に行き、電車賃をもらいました。ある時、電車賃をもらおうとその先輩の下宿へ夜訪ねて行ったところ、先輩の彼女が一人でいて、一緒に先輩の帰りを待っていました。帰ってきた先輩は、二人きりでいたのを見て、怒り狂いましたが、僕が「何故怒るのかわからない」と言うと、怒るのをやめてあきれていました。男女関係のルールなど、ぜんぜんわかっていませんでした。

医大に入るとすぐ音楽サークルに入りました。そしてドラムにのめり込みました。授業など全く出ないで、一日中ドラムを叩いていました。もし僕が何でもほどほどにする性格ならば、発病にまでいかなかったような気がします。でも一つのことをやり始めると、その事しか出来ないから一年生を二回やって、二年目に音楽をやめて、いきなり授業に出るようになりました。同級生の友達も出来ず、行き場を失った自我が勉強の方に組み替えられることなく、崩壊して一気に発病しまったのだろうと思われます。勉強の方に自我が向かわなかったのは、高校の時、いくら勉強しても、わからないことは増えるばかりで、東大へ入った連中に追い付けず、勉強というものに挫折してしまったことに原因があると思われます。その頃からおもに悪口を中心とする幻聴がきこえはじめました。

 
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