(4)発病後

僕は相変わらず下北沢を徘徊していましたが、歩いていると頭のなかの考えが流れ出して回りの人に伝わってしまうと思い込んでいました。それを防ぐために頭に力を入れ、血液を頭にのぼらせようとしました。すれちがう人から聞こえてくる悪口を褒め言葉に変えるため、例えば「かっこわるい」という幻聴をふりはらい「かっこいい」と自分で納得するために、緊張する必要がありました。食事を食べるとき、一気に食べてしまわないと、口の中が腐ってしまう。身体まで腐ってしまう。腐らないように一心不乱に「次はお水。つぎはスプーン。」と幻聴にしたがって食べていました。 

電車に乗ってちょっとかっこつける。するとすぐどこからか、幻聴がくるのです。「かっこ悪い」「くさい(芝居がくさいという意味)」「ばけもの(これは自意識が爆発したときに聞こえる)」「焦げ臭い(これは自意識が相手の自意識と摩擦したときに聞こえる)」「どんくさい(これは相手の鋭角の自意識が僕にぶつかったときに聞こえる)」このように僕には自意識が透明だが見えていました。 

僕はその頃下宿で、美術手帳に連載されていた伏久田喬行氏の「自分は自分の身近な人が今何をしているのか、手に取るようにわかる」などの美術評論を何回も読み直していました。今にして思えば、伏久田氏も分裂のけがあったのではないかと思うが、それを読むことが現実との唯一の接点になっていました。

大学に通うために一歩外へ出ると、歩きながらすれ違う人が僕の悪口を言い「右へ行け、左へ行け」と命令してくるし、電車に乗ると、自分がせんべい布団に寝ているのが見えるし、立っている見ず知らずの人が「毒蛾である」と言ってくるので、毒蛾から身を守るためをくるくると向きを変えて、次の駅で「おりろ」と聞こえてくるので降りて、大学まで行けずに下宿へ帰ってくるのでした。たまたま大学へ行っても、ずいぶん長い間風呂へも言ってないので当然なのだが、知り合いから「くさい」と言われ、その「くさい」と言われたのは現実なのだがそれが妄想か現実なのかすらわかりませんでした。

当時、僕はバンドをやっていた友人からヌラリヒョン(妖怪の名)と呼ばれていました。当時の僕の写真は一枚だけあるのですが、今見直すと青白くまるで幽霊のようです。

下宿はゴミやカビのはえた食物で足の踏み場もありませんでした。下宿に帰ると、「そこは踏んではダメ」、「そこもダメ」、「いい」などといちいち指示があり、部屋の中をぴょんぴょん飛び歩いていました。最後には「どこもだめ」ということで畳の間の一箇所につまさきをそろえて鳥のようにズッと止まっていました。

ある時は、天井から恐竜の骨がドカッと落ちてきたこともあったし、僕の下宿を中心に悪魔の大戦争があり、夜明けとともに僕は悪魔の子供を出産したのですが、生んだという実感はあるのですが、身体はどこもいたくもなく手元にも悪魔の子は見えませんでした。一晩中まんじりともせず僕はこのドラマを見ていましたが、やがて悪魔達は引き上げていったのでした。

小学校で親しかった友人が、たまたま田舎から東京へ出てきて、僕の惨状を発見し、僕の実家へ連絡し、父親がとんできました。錦を飾るつもりでずいぶん長い間、僕なりに頑張ったつもりなのに、こんなになって帰らないといけないのが恥ずかしかったし、医大へ入るのにずいぶん金を使わせてしまった父に申し分けがなかった。

父は下宿の大掃除をして、僕と大学に手続きをしにいきましたが、大学では事務員がひもでつながった三角定規や物差しを食べていました。帰りの飛行機の中ではスチュワーデスのパンティが通路じゅうを飛び回っていました。

家へ帰ってから、精神病院の医者に往診に来てもらったりしていましたが、大学病院の精神科の教授を父が知っていたので、相談したらすぐ入院と決まりました。

家にいる間に、父と弟と三人で海へいったりしましたが、水が怖くて海に入れませんでした。

入院には父もついてきて、タオルや洗面器など一式を売店で買ってそろえてくれました。

しかし、入院してもっともショックだったのは、こんな何も出来ない人の仲間の一人になったことで、僕は絶望してしまった。しかししばらくすると病院の人達にも慣れていきました。

病院では十何錠も薬をのんでいたので、いつもトローンとしていました。看護婦さんからいつも「もっとシャンとせんか」と言われていましたが、この薬の量では不可能でした。僕も主治医との面接の度に、「こんな幻聴があります、あんなのもあります。」と訴えるので、主治医も一錠また一錠と薬を増やしていったのでした。

ある日看護婦さんから「はやくよくならんといけんね」と言われ、僕が「どうして?」と返事すると看護婦さんはびっくりしていました。これがこの病気の不思議なところで、病院に入ってらくちんにしていると、妄想が出ても困ることはないし、発病前のしんどさに比べると、発病して妄想のなかにいることは、心地よかったのです。病的になる時、自分を後ろから押すというか、病気の中に逃げ込むような感じがあったのを覚えています。病気の直前には誰かに甘えたくてしようがないのですが、それが叶わないと病気に逃げ込む感じでした。ぼつぼつと幻聴が現われた頃、それまでつっぱってたものが消え、病気に逃げ込むと(その頃は病気とは思わなかったけれども)ふっと楽になりました。妄想や幻聴はあっても、自分の足で立たなくてもよくなったから、もっと早く病気に身を任せればよかったと思いました。

入院中イヤだったことは、病棟の多くの人から「坊ちゃん坊ちゃんやねえ」と言われることでした。世間知らずはわかっていましたが、あらためてみんなから言われると、ほとんどイジメに近い。それまで反抗期から何年もかけて築いてきた自信が粉々になって自分が無い状態だったので、入院中も人の話をうんうんと聞いてるばかりでした。みんな中身を持ってるなあと、ただただ他人を見つめていました。

それが、最近になって、世間にも、自分は世間知らずだと思っている人がいっぱいいることにやっと気付きました。入院中によく言われた「坊ちゃん」というのも、他人を低く見て、自分に自信をつなげようという患者さん達だったのかなあ、とも思うようになりました。それと、僕に自分というものがなかったのは、あまりに辛いことが続き過ぎて辛さを感じることから逃げるために、自分をなくしてしまったのだと思います。僕だけでなく、入院している人の何人かも、「自分がない」ということを言っていました。

入院中にも、父は弟と海へ連れて行ってくれましたが、その時も水が怖くて、海に入ることが出来ませんでした。父が「面白いぞ、泳ごう」と勧めたけれども、渚には近づきませんでした。九州旅行にも連れて行ってくれました。千畳敷へ行ったことを覚えています。しかし、現実感はなく、おもしろくも何ともなかったです。「帰ろう」と泣いたような気がします。

父は、僕が悪い時も本当によく面倒をみてくれました。本当に頭が下がります。

入院しながら工業大学に入学しなおし、卒業して、小さな会社に勤め始めました。

勤めながらも幻聴があり、毎週、近くの神経科へ通っていました。「きょうはこんな幻聴のことを話そう」と思っていても、通院日になると、幻聴は全然聞こえないのでした。病院へいけるということで安心し自分の甘えが満たされ、病状が軽快するということなのだと思います。
                                     

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