(5)2回目の発病

実は2回目の発病(再発)もボランティアと同じく共依存が原因でした。30才の頃、ある食品会社のコンピューターのシステムの立ち上げの仕事をしていました。毎日、朝8時から夜10時頃まで、ほとんど休みなしに働いていました。〆切りが迫っていたからです。僕の受け持ちの仕事は終わっても、他のメンバーがまだ仕事をしていると、何かしてあげたくて帰ることができず、ずるずるとその日の終りまで残っていました。タバコも何か悪いような気がして仕事中は吸いにいけませんでした。2週間ほどすると、仕事が終わって家に帰っても、全然眠れなくなりました。その頃は病気に対する警戒心もなく薬もやめていました。そしてそのまま次の日の仕事に出ていく、という有様でした。ひさびさに幻聴が戻ってきました。悪口が聞こえるようになりました。それに仕事が億劫で、うつの症状も出てきました。それで、システムが稼働し始める前に仕事をやめて、家でボーッとしていましたが、入院が必要だと自分で判断して、1回目に入院した大学病院に一人で行き、入院しました。この時の主治医が、帚木蓬生というサスペンス作家の精神科医でした。「入院するのになんで一人で来るんだ」と怒られましたが、先生が身元引受人になってくれ、入院することができました。

この先生の口癖は「僕は自殺を止めはしない。死にたい人はどんどん死んでもらいましょう」でした。しかし女性患者が「自殺したい」と訴えると「死ぬのは怖いですよー。死骸は汚いですよー」と脅していました。

開放病棟でしたが、Dルームという娯楽室の長椅子にベッタリ寝そべって、「しんどい、動けない」と言っては、いつになったら動けるようになるのだろうと思っていました。楽しいこともありました。先生の本を大学生協で買ってきて、著者のサインをもらいました。それに僕を中心として、先生の患者でグループを作って、文化祭の時、コントをして大受けをしました。

ある日、退院した患者さんが入院中の女性の患者さんにヨウカンを持ってきました。それを婦長さんが見とがめて「この女性には、甘い物を持ってこないでくれ」と、ヨウカンをつき返すのを見た僕は、猛然と婦長さんに抗議しました。「そんなこと、患者の自由ではないか」と。そして興奮のあまり、大きな四角い灰皿を持ち上げて床へ投げつけました。その後何故かワーワー泣いてしまいました。この事件は、あとで婦長さんが僕にあやまるのですが、「注意したこと自体はわかってほしい」と理解を求めてきました。僕は婦長さんの振る舞いが母親の過干渉と同じにみえて許せなかったのですけど、「来年、定年なのでわかってほしい」と言われ、妥協して「わかった」と言いました。

入院中も、田舎の彼女が訪ねてきたりしていたので、病棟内では女性との付き合いはありませんでしたが、ある男性患者と女性患者が夜おそくなっても外出から帰ってこなくて、看護婦さんがバタバタ走り回っているのを見ながら、仲良くなった不眠症のサラリーマンと「ああに違いない、こうに違いない」などと、下馬評をやっていました。このサラリーマンは半年以上も眠っていないという筋金入りでした。、退院する時に「奥さんが来ないのはおかしい」と僕が指摘するまで、奥さんと別れたことなどずっと隠していました。みんな、プライベートはうまく隠して、患者同士付き合っていました。

退院が僕の番になり、半年で退院してから、地元で私立の精神病院に一ヵ月ほど入院しました。そこでは、大学病院と違い、分裂病の進んだ状態で落ち着いている人が多く、みんな、しゃべらずタバコばかりふかしており、病院に住んでいるという感じの人が多く、僕も友人が作りづらかったです。それに対して大学病院はいろんなタイプの人がいて、みんなよくしゃべり、病状改善の見込みのある人が入っていました。

私立では生存競争が激しく、一日の病院の流れについていくのに慣れるのが大変でした。ちょっと油断していると、行事についてゆけず、お留守番になりました。大学病院のように、看護婦さんと話し込んだりするゆったりとしたところがありませんでした。これは女の看護人の少なさによるもので、先生も患者200人に3人くらいで、一週間も二週間も先生に会いませんでした。それに対して大学病院では患者5人に先生1人くらいで、毎日、先生のインタビューがありましたから、圧倒的な差がありました。

またそこでは、他人のタバコの吸い殻を拾って吸っている人を初めて見て、びっくりしました。それから僕がタバコを吸い終わって消そうとすると、横から「くれ」と言って吸うのでした。


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