子供に対する暴力

今でも体罰はよく行われているし、体育系のサークルでは必ずあります。愛をもってなぐるのだというので、なぐられたら「ありがとうございました」と言います。愛なんて口で言うだけで、抑圧された怒りからくる内面の不安があるので殴るだけでしょう。暴力を受けて「ありがとう」などと言っていると、これが問題なのですが、上には従順な、下には暴力的な人間ができあがります。愛情とは抱きしめることで、暴力とは相入れません。下に暴力的なのでいちばん悲惨な結果を招くのは、子供に対する暴力です。

僕の母は、祖母からお灸その他を使った体罰によって厳しく育てられたお嬢さんでした。母は、僕や妹を縛ったり、閉じ込めたり、お灸をすえたりして、折檻をする理由を、「私はこうして育てられて、これ以外の育て方は知らない」と言いました。しかし、母自身、躾という美名に隠れて暴力を受けたことをわかっていませんでした。辛い悲しい過去は忘れようと抑圧してしまいました。つまり、自分にうそをついたのです。それが性格の芯にあるので、僕にも「うそをついてもいい」と言ったり、折檻も躾であると僕達に強制したのです。祖母から受けた教育が神経症の母を作り、僕の分裂病の発病のもととなりました。

僕の母は、僕をあるときは抱きしめ、あるときは暴力で脅かしました。これによって僕は愛されることを自明のこととする自我を形成出来なくなり、おまけに母の性格による緊張した家庭の雰囲気から、僕はその緊張から逃れるため一種の感覚遮断、自閉的状態になりました。僕と僕の回りの世界は、ガラス一枚隔てたようで、僕は外の世界とは違う世界に生きていると思っていました。人からは「ボーとしている」と言われていました。こういう子供のいたずらは、えてして度が過ぎており、干してある布団に泥団子を投げつけたり、人に向かって瓦を投げつけたりしました。そして長ずるにおよんで、こういう悪を抑圧して鼻もちならない優等生になりました。性のめざめの頃になって、清く正しい自分と抑圧しきれないいやらしい自分とが深く葛藤し、中学時代は隠れてビクビクしながらオナニーをし、高校時代は母との全面対決となり、母親に暴力をふるったりしました。

暴力によって深く介入された子供は、表面的には良い子でも、孤立的で自己評価の低い分裂的性格ができ上がります。良い子は怖いものです。悪いことは抑圧しているからです。悪い自分を出しながら、回りからのリアクションも受け止めながらもまれて育ってないので、内面であるいは無意識に悪いものを抱えています。長ずるに及んで、犯罪を犯したり、精神病になったり、そこまでいかなくとも新興宗教にこったりします。表面に現われないものではその子が親になって自分の子に対して暴力的なしつけをしたりします。暴力をふるって躾をすると子供は「躾の内容ではなく、暴力をふるってもいいんだ」というメッセ-ジをうけとります。こうして暴力の連鎖が続いていくことになります。どっかで自分の感情に正直になり、憎悪などの悪いものを外に出さないと子から孫へと暴力の輪は断ち切れません。そのためには、子供には責任はありませんから、親が悪い、親なんか敬えるか、親を批判して何が悪いと言う必要があるでしょう。内面の憎悪の激しい人ほど親を敬ったりするものです。

僕は今まで一方的に母の被害者であると言ってきましたが、母に関する良いことは何か現実感がないのです。読んだ人はどんな鬼の様な母か、と思うかもしれませんが、母と会った大学病院の先生は「案外普通のひとじゃないか」と言っていました。         

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