発病の経緯2

最後の日の夜に、彼等が聖地と呼んでいる場所へ連れて行かれ、祈りを捧げる事になった。神に悔い改めを誓い、この宗教に自分をささげる為である。皆がみな、異常な祈をしていた。私はその中にあって、最初のうちはどうしてもそんな祈りをする事は、出来なかった。しかし、彼等の何人かが空を見上げていた。「あれは何だ?何か光ってる」と。自分も目をこらすと、かすかに光りの点が、空を動いているのが確認できた。UFOかもしれない、と思った。そのすぐ後、突然大きな光りの玉が地に落ちるのを、その場にいたほとんど全ての信者達が、目撃した。勿論、私もそれを見た。そんな一種の異常体験をしてしまったのが、この教団を正しいと信じさせるきっかけになったと思われる。練成会を終えた頃から、私は精神的にだんだんとおかしくなって行ったと思う。B教団では、霊感をかなり重要視していた。教祖自体、霊感で教義を書いたと言っていたくらいだったから。私自身、以前からオカルト関係の本を多く読んでいたので、心霊現象を認めている立場だった。しかし、こんな形でそれが活用されるとは、思ってもみなかった。一緒に生活していた姉を、自分はこの教団に勧誘しようとした。しかし姉は以前私に、友達にキリスト教会へ行った時の牧師の説教に憤慨し、それ以降キリスト教なんか信じるか!と言っていたのだ。にも関わらず、そんな事をしたのだから、姉との関係が最悪となってしまった。その頃、私の心をとらえたある思想に出会う。教団の教えをさらに発展させた「世界統一思想論」なるものであった。それを熟読するには、正式に教団に献身する必要があるとの事だった。そこで、この教団に献身する事にしたのであるが、教団員達の生活は、かなりひどい事も知っていたので、躊躇もあった。私の母親が、その時松山から来て、説得してくれた。これは私にとって、かなり効果があった。もう百貨店での勤めも辞めて、私も松山に帰る事にした。そして最後の別れと、香里園にあった教団の支部に出向いたのであるが、そこで信者達に強く引き止められた。しかし、自分はそれを振り切ったのだった。そして私はまた松山に帰ってきた。だが、まだ教団との縁は切れなかった。 日曜礼拝として、まだこっちの教団に相変わらず通っていた。仕事をしなくてはならなかったので、新聞社にアルバイトとして雇われた。解版整理、という部署だった。その頃の新聞は、今のようにコンピューター製版をしておらず、亜鉛製版だった。刷り終わった版組みを解体して、特定の大きさの文字や特殊な活字などを、決められた場所に保管するのが仕事だった。一日七時間労働、休みは交代制で、一ヵ月七万円の給料だった。その当時としては、悪くない額だったと思う。仕事は簡単で、すぐに慣れてしまった。自分を含めて、三人の新人がこの仕事に就いていた、が、私はたった十日間で辞めてしまう事となる。 私が仕事を辞めたのは、本当に単なる思いつきの事からだった。街中を歩いていた私は、あるミシンメーカーの募集広告を見た。突然、天啓が頭にひらめき、「ここに入らなくてはならない!」との思いに駆られた。店内に入った私は「あのー表の募集を見て来た者なんですけど」と言った。もう6時くらいになっていたと思うが、店員の一人は「あ、そうなんですかよく来てくれました」と意外にも心良く応対してくれた。「私、今履歴書を持っていないんですけど」と言うと、「ああ、面接だけでいいんですよ」と言ってくれたので、それなら、と話しを聞いてもらった。どんな受け答えをしたかは、よく覚えていないが、回転の早くなった頭で、ぺらぺらと自分をアピールしたと思う。どのくらいの時間話していたのか、わからないが、「明日にもいらっしゃい!」と担当の人が言ってくれたので、「はい!」と受けてしまった。店から帰る時になって、初めて今自分が新聞社に勤めている事に気が付いた。私はその足で、そのまま新聞社に行って、仕事を辞めたいと上司に言った。かなりもめたが、何とかそれまでの給料だけはもらう事ができた。確か、二万五千円をもらえたと思う。それをそのまま家にちゃんと持って帰ればいいのに、明日からの支度、とばかり全部自分は使ってしまったのだ。ある洋服店に入り、いろんな物を買った。とりあえず、手持ちの金で買う事のできた靴だけもらい、その他は後日支払うという事でその店を後にした。精神的にかなりおかしくなって来ていたので、次に着物の店にも寄った。なぜか自分は日本人なのだから、着物の一つも持っていなくては、と思ったからであった。その店には、すぐ母がその予約を取消てくれたので、助かった。洋服店には、その後取りに行かなかったので、自然消滅した形になった。

 
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